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これからの「正義」の話をしよう その5

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難解だが普遍的道徳を語る際に避けて通れない話題だけあって、一番長い章です。まとめたら、すごい長い上にただのカントの理論の説明になりました…。

○第五章 重要なのは動機…イマヌエル・カント
定言命法 対 仮言命法
ジェレミーベンサム (Jeremy Bentham)が「道徳と立法の諸原理序説」を著した5年後の1985年、イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は「道徳形而上学原論」を発表し、独自の道徳原理を打ち立てた。



カントは、人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため人間は、人間の持つ特別な尊厳を尊重した行動 (道徳的な行動)をしなくてはならない。



では、カントの言う道徳的な行動とはいかなるものか。カントによれば、人間は仮言命法ではなく、定言命法 (Kategorischer Imperativ: Categorical Imperative)という命法に基づいて行動すべきであるという。



仮言命法とは「○○したいならば××せよ」という形式の命法のことである。例えば「幸福になりたいならば、嘘をつくな」は仮言命法だ。



一見「嘘をつかない」は正しい行動のように見える。しかし、ここでの「嘘をつかない」は単に「幸福になる」という結果を得るための手段であって、「嘘をつかない」自体が正しい行動かどうかは考慮されていない (これはカントの批判した功利主義的発想だ)。



そのためカントは、このような動機に基づく行動は正しくないとする。たとえ結果的に幸福になれなかったとしても、「その行動が正しいから」という動機で「嘘をつかない」のであれば、それこそが正しい行動なのだ。



定言命法が命じるもの
カントは、幸福など、何かの目的のために行動するのでなく、「ただその行動を行うことが正しいから」という理由で行動をせよと言う。そして、そのような行動を命じるのが定言命法だ。定言命法とは、他の動機を伴わずに、それ自体として絶対的に適用される実践的な法則であり、他に考慮すべき目的や依存する目的を一切持たずに何らかの行動を命じるものである。



定言命法には3つの公式がある (本書では2つのみ紹介している)第一公式は「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言うものだ。大ざっぱに言うのならば、自分の行う行動を、他の人全員が行ったとしても矛盾が生じないような原則のみに従えということだ。



第二公式は「何時の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてでなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」と言うものだ。最初に述べた通り、カントは人間は理性を持って自由に行動することのできる自律的な存在であり、尊厳と尊敬に値すると考えた。そのため、人間性を手段としてでなく目的として扱わなくてはならない。



例えば、自分が幸福になるために他者を助けるという行動は、助ける対象である他者を、単に幸福になるための手段として扱っている。これでは、他者の人間性を尊重しているとは言えない。他者を助けるにしてもそれは、自らがそれによって何かを得るためではなく、他者の持つ人間性を尊重するという目的のために行う必要があるのである。



我々はこのような定言命法に従って行動する必要があるのである。



◆道徳と自由
カントは、この定言命法に従って自律的自由を実践することこそが道徳的な行いであるとした。しかしながらここで疑問が生じる。自律的であるのに「定言命法に従う」とはどういうことか。定言命法の命令に「従う」のならば、それは自律的とは言えないのではないか。



カントは「自律的」という言葉を独自の意味で用いている。カントの考えでは、人間が自分のしたいことを選択するだけでは自律的とは言えない。我々は通常、自らの意思で行動しているように見える時でも、生理的欲求と欲望との奴隷である。店でドリンクを選んでいるのは自由に行動しているのではなく、渇きに服従しているに過ぎない。またそもそも我々は、物理法則など自然の法則に従って行動せざるを得ない。



カントの考える自律的行動とは、欲望や自然の命令、社会的因習に従うのでなく、自分の定めた法則に従って行動することである。つまり、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することが、自律的な行動なのだ。



◆自律的に従うということ
しかし、外部に押し付けられた法則ではなく、自らが自分自身のために定めた法則に従って行動することなど可能なのだろうか。人間にはそれが可能だとカントは考える。



我々が物事を判断する際には、感性界と英知界という2つの観点がある。自然界の生物としての人間は、自然法則と因果律の支配する「感性界」という視点から物事を判断する。一方理性は、感性界に起因する判断から独立したものの見方、理性のみを根拠とするような法則に従って物事を判断することができる。このような判断が、「英知界」という視点からの判断だ。



人間は理性を持つ素晴らしい存在だ。そして、感性界的な見方に縛られるのではなく理性の力を用いることによって、従うべき普遍的法則を誰もが自らの力によって打ち立てることができる。しかも、純粋実践理性を用いている限り、すべての人は同じ普遍的法則、すなわち定言命法に到達するとカントは考える。



誰にも命じられず、ただ自らの理性の力を発揮することで自らのための定言命法を打ち立てる。そして、その自ら作り上げた定言命法に従って行動すること、それが道徳的に正しい行動なのだ。



◆カントと正義
カントは、このようにして道徳に関する議論を打ち立てた。これらは、我々一人一人がどのように行動すべきか、様々な示唆を与えてくれるが、一方で個人ではなく、政治や法律がどのようにあるべきかについては余り多くは述べていない。しかし、いくつかの小論を通して、彼の正義感を推し量ることはできる。



彼の考えの一つ目は、公正な憲法とは個人の自由を全員の自由と調和させるようなものであるべき、ということである。これはこれまでの個人の自律を尊重する考えと整合するものである。



カントの考える正義に関する2つ目の考え方は、正義と権利は社会契約 (Social Contract)に由来しているというものだ。ただしカントは、ジョン・ロック(John Locke)のように、歴史のある時点で実際に社会契約が結ばれたとは考えない。そのような証拠を探すことは難しいし、そもそも過去にある集団が同意したからと言って、その憲法が公正なものとみなすことはできない。



そのためカントは、社会契約は実在のものでなく、仮想上のものだと言う。しかし、なぜ実在するわけでもないのにわざわざ社会契約を扱う必要があるのか。それはその契約が、仮想上のものでありながらも、実際に人々に対して「それに同意した」とみなす義務を負わせるような実在性を有しているからである。



だが、仮想上の契約がどのようなもので、それはどのような正義の原理を生み出すのだろうか。カント自身はその点について語っていない。そのような疑問に200年後に答えようとしたのが、次章で解説するジョン・ロールズ(John Rawls)である。

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これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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道徳形而上学原論 (岩波文庫)

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カント入門 (ちくま新書)

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