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これからの「正義」の話をしよう その9

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○第九章 互いに負うものは何か?…忠誠のジレンマ
◆国家は歴史上の過ちを謝罪すべきか
ここまでで、本書における主張の土台となるあらかたの題材は出そろった。サンデル自身の主張を述べるにあたり、本章でまず話題とするのは、国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうかということである。



ナチスドイツのユダヤ人虐殺、日本軍の慰安婦問題、オーストラリアの先住民差別、アメリカ国内のWW2時における日系アメリカ人の収容や奴隷制等の問題など、国家による歴史上の過ちとされる問題は多い。



国家はこうした歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか。謝罪が社会にとってプラスに機能するかマイナスに機能するかかは時と場合による。しかし本章で考えたいのは、こうした損得の有無ではない。



◆「自由な自己」が負うべき責任
謝罪するということは何らかの責任を取るということである。従って現存する世代が、過去の世代による過ちや不正について謝罪するということは、多少なりとも過去の世代の過ちの責任が自らにあることを認めるということだ。



しかし素朴に考えれば、自分がしなかったことに対しては謝罪のしようがない。上に挙げたような問題を謝罪するのに批判的な人は、現在の世代が先祖の罪に対して道徳背的責任を持つという考え方を拒否する。



特にこうした道徳的責任を否定するのは、人間の自由を重んじる人々である。何故なら自由であるとは、「自らの意思で背負った責務のみを引き受けること」だからだ (これを道徳的個人主義と呼ぶ)。



自由を重んじる人々は、共同体の一員としてのアイデンティティを、自分から切り離す。過去の世代の罪は過去の世代の罪であり、私のものではないのである。



このように共同体から自由だからこそ、人間は自らの善、幸福を選ぶことができる。つまりこの国家による謝罪の問題は、正義に関する議論であると同時に、これは自由への問いであるといえる。



自由を重んずる人々が認める義務は、人間に本来つきものの自然的義務 (人を殺さないなど)と、契約等によって合意の上で受け入れる自発的義務のみだ。



ロールズの考えは、こうしたリベラル派の自由の構想に基づくものであった。これまで述べてきたようにロールズは、一人一人を自由で独立した自己とみなし、道徳の原理には踏み込まず、中立的な正義の原理を構想した。



◆「自由」の概念の再考と連帯の義務
しかしサンデルはこうした「自由の概念には欠陥がある」と考える。我々は自分たちの社会生活の基本的特徴について考え直す必要があるのである。



人間には、リベラル派が認める自然的義務と自発的義務以外に、「連帯の義務」があると、サンデルは考える。人間は生まれながらにして重荷を負った自己であり、自ら望まない道徳的要求を受け入れる存在であると考えなくてはいけない。



我々は家族や国家といったコミュニティにおいて、忠誠心や一体感という絆で同胞と結ばれている。そしてそのようなつながりから生まれる義務は確かに存在する。 



例えば、犯罪を犯した兄を警察に引き渡すべきか、かくまうべきかというジレンマが生じるのは、忠誠や連帯の要求が、犯罪に対する道徳的要求と対比しうるものであるからだ。もし忠誠や連帯の要求が取るに足らないものならば、このようなジレンマは生じない。



つまり我々は自らの身に対して責任を負う自由な自己であるとは言えず、連帯の義務を負ったコミュニティの一員でもあるのである。



コミュニティの一員として連帯の義務を負うならば、何が公平かを考える際に「コミュニティにとっての善」を考慮しない訳にはいかない。こうした立場は、リベラリズムを批判する「コミュニタリアン (共同体主義者)」と呼ばれるようになった。



コミュニタリアンは、道徳の原理と正義の原理を独立させた自由主義者とは異なり、道徳の原理を排しては、正義の原理を論じることはできないと考える。こう考えるならば、アリストテレスの理論も一考に値する。



◆物語る存在
(この部分はいきなり構成主義的な話になり、正直、サンデルの本だけではすぐには理解しがたいので、かなり勝手に言葉を足しながらまとめます。間違いがあればご指摘ください)



アラスデア・マッキンタイアは、著書「美徳なき時代」において人間を「物語る存在」とみなす。これは、「コミュニティの中で連帯の義務を持つ存在としての人間」観を支えるアイディアだ。



「物語る存在」とはどいうことか。我々は、ある程度のまとまりと首尾一貫性を持った、自らの物語の中を生きている存在だということだ。



人間は誰もが自らの物語の中を生きている。人生は単なる客観的事実の積み重ねではない。人間は、自らの人生を一つの物語として生きることで、過去・現在・未来が一つのまとまりを持つのである。



「多少の山や谷はありつつも平凡な人生」「過去に大きな苦労をしながらもそれを乗り越えた人生」「一貫性のない行き当たりばったりな人生 (これも一つの一貫性だ)」こうした全体としてのまとまりを自分の人生の中に見出すことによって、それぞれの出来事が自分の人生の中で意味づけられていく。



コミュニタリアンがこの「物語る存在」に注目するのは、人生の物語はアイデンティティの源であるコミュニティの物語の中に埋め込まれているからである。



我々は一定のコミュニティの歴史を他者と共有しながら生きている。そして、この「私の人生の物語は他人の物語とかかわりがある」という認識が道徳的な重みの源となる。



我々のアイデンティティは決して社会から独立して存在するものではないのだ。そのため、「物語る存在」としての自己観は、「自由な存在」としての自己観とは相容れない。



◆道徳をめぐる議論は可能か
このように「物語る存在」として人間を見るならば、従来の自由の概念は再考すべきであるし、正義を考えるにあたって、コミュニティの善を考えざるを得ない。



「正義」の支配する公共の領域において、個人的な道徳的・宗教的信条を持ち込まないことは、寛容と相互尊重を確保するための一法に見えるかもしれないが、そうした中立性の確保は達成不能である。



我々は、正義をめぐる論争によって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なく巻き込まれるのである。しかし、宗教的な対立などに移行せずに道徳・善について考えることは可能だろうか。そのような公的言説とはどのようなものだろうか。



これは単に哲学上の問いではない。我々の政治的言説を活性化し、市民生活を一新しようとする試みの中心にある問いなのだ。最終章では、この点について考えていくことになる。

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美徳なき時代

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これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

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これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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