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近代日本一五〇年:科学技術総力戦体制の破綻 (前半)

 


本書は岩波の2018年の売り上げトップだった新書である。タイトルからは「科学技術の歴史」を想像すると思われるが (私もそうだった)、本書の中心となっているのは“技術”ではなく科学技術“体制”である。筆者が、我が国の科学に見るのは、知性の営みたる「学問」としての科学ではなく、「国家興隆の道具」としての科学である。

  

もちろん、時の流れの中で、一定程度教養として科学が楽しまれる時期もあった。しかし、開国から戦後の国際競争を経て現在に至るわが国に通底しているのは、あくまでも国家の道具としての科学の姿である。このことは、現在の学問をめぐる世間の見方を見ても容易に理解されるに違いない。

 

1位になるのもうなずけるほどに、興味深い内容が豊富で、まとめていたら非常に長くなったので、2度に分けて掲載する。

 

西洋文化への接触と文明開化
1853年のペリー来航を受けた幕府は、にわかに高まった危機感から、洋学所、海軍伝習所を相次いで創設した。我が国で近代科学が取り入れられる大きな契機であり、学としての「医師の蘭学」から幕府による「武士の洋学」へ転換である。

 

「洋学」は、黒船に見られるように軍事技術に体現されていた。咸臨丸に乗りこんだ福沢諭吉や、伊東博文や大久保利通ら率いる岩倉使節団が欧米で目にしたものは、蒸気機関によるエネルギー革命がもたらす巨大な産業社会であり、工業と経済における絶え間ない革新が、国家間の競争に直結する国際社会の姿だった。

 

そうした欧州列強の在り様を見た日本人が取り入れようとしたのは、数学や物理それ自体ではなく、科学がもたらす「実用性」にあった。こうした姿勢は近代化の素早い達成を助けはしたが、一方で近代化の底の浅さの原因ともなっている (p.35)。今日にいたるまでの日本の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重を置いて遂行されることになったのである。

 

◆殖産興業・富国強兵
大久保利通が「大凡国の強弱は人民の貧富に由り、人民の富貴は物産の多寡に係る」と記したように、軍事力と生産能力は国力そのものであった。明治政府は維新直後に兵部省と工部省を創設し、造船工場の建設、技術官僚・技術士の養成に着手する。

 

その甲斐あって、日本の産業は目覚ましい発展を見せる。もともと軍事的需要から始まった造船業は、日本の重工業・機械工業・化学工業への大きな推進力となった。1881年には日本鉄道会社、1872年には富岡製糸場が建設され、1887年には東京電燈が日本橋に火力発電所を建設し、東京と大阪で路面電車が走り出すのが1903年である。この頃にはこうした技術の普及は欧米に比べてせいぜい20年遅れとなっていた。

 

こうした日本の急伸を可能にしたのは、単純にタイミングの要因も大きい。イギリスのように旧式のミュール紡績機が定着していなかったおかげで、アメリカ発の最新式リング機を導入できたし、フランスのようにガス灯が十分普及していなかったために、電灯の普及がしやすかった。

 

また、こうした事業が多くの負の側面を伴ったことも周知の事実である。女工哀史のエピソードを初め、足尾銅山鉱毒事件や、度重なる炭鉱事故など、生産力増強を急ぐ中での人々の犠牲は枚挙にいとまがない。

 

1893年には労働時間が11時間弱となっていた富岡製糸場の状況に(しかもその後の電灯の普及は昼夜二交代を可能にした)、駐日フランス大使ポール・クローデルは「深い同情を禁じ得ない」と述べたそうだが、福沢諭吉はこうした労働環境をむしろ国際競争上の利点と捉えたという。

 

勿論、こうした劣悪な労働環境が許容されたのは、一方で大きな社会的要請があったからだ。かくして、日本は驚くべき速さで近代化を遂げた。

 

◆独立維持から海外進出へ
その後の日清日露両戦争を経て日本が列強の仲間入りを果たした時代、欧州列強が植民地支配を強める中、科学技術の重要性はますます高まっていく。

 

第一次世界大戦では、毒ガスや無線電信、潜水艦探知などに一級の科学者が関与した。こうした状況を受けて日本でも、大戦前後、数々の軍事研究所設立ラッシュが起こる。中でも1917年には、今なおわが国の科学研究の中枢の一つとなっている理化学研究所が、渋沢栄一高峰譲吉の奔走により半官半民の形で創設された。

 

高峰が記した理研創設趣意には「世界列強の間に立ち一等国たる地位を保つ」決意が記されていた。折しもドイツでは、肥料や火薬の生成に欠かせない窒素を空気中から固定するハーバー・ボッシュ法が実用化された。日本と同様少資源国であるドイツが、資源の不足を科学で克服するというストーリーは、日本人を大いに勇気づけた。

 

続く、1918年には大学令が発せられ、1920年には日本学術会議が発足する。こうした体制の中で、KS鋼、八木アンテナ、NE式写真伝送方式等、日本独自の技術が開発されていった。

 

近代戦争が総力戦である限り、平時の産業生産能力や研究開発能力は、とりもなおさず潜在的軍事力である (p.131)。例えば自動車産業では、「軍用自動車法 (1918年)」によって、規格にあった車の生産に補助金を出す代わりに、戦時には軍が徴発することが定められた――とはいえ、自動車産業について言えば、フォードとゼネラルモーターズに太刀打ちできず、日の目を見るのは満州事変後に事実上の追放以降となる。

 

このように、自動車産業をはじめとする各種産業の発展を後押ししたのは市場原理ではなく軍事的要請であったのである。

 

(後半へ)  

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