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反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

最近にわかに「反知性主義」という言葉を良く聞くようになった。「反知性主義」に関する本も急に沢山出てきているが、このページで、読むに値する本として薦められていたのが、「反知性主義」という言葉の原典であるリチャード・ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』と、本書の2冊である。



本書の著者は「森本あんり」、獄本野ばらみたいな語感だが、クリスチャンであり神学の専門家、そして国際基督教大学の副学長である。



何故クリスチャンがこのような本を書くかといえば、アメリカにおける「反知性主義」の根底には、アメリカにおけるキリスト教の歴史ががあるからだ。





アメリカとはキリスト教の国である。そもそも建国の歴史自体が、1620年にニューイングランドに入植したピューリタンの一団によって始まった。彼らの中に占める大卒者の割合は、当時の基準から見れば非常に多かった。



大卒者が何をしていたかといえば牧師である。宗教改革によって出現したプロテスタントの基本的な立場が、教会の教えではなく聖書の教えに立ち返ることであり、そのためには聖書を正しく解釈・解説するだけの知性が求められたからだ。



そもそも「反知性」が成立するためには、対して「知性」の価値を賞揚する立場の存在が前提として必要である。そのような立場はアメリカ建国の当初から存在したのである。後のハーバード大学が牧師の養成機関として設立されるのも、入植からわずか16年後の1636年である。



こうした背景から牧師は、知的な職業として人々の尊敬の対象となっていた。しかし、ここには厄介な事実もあった。大卒者である牧師が行う毎週日曜日の説教は、高度に知的なもの、要するに、多くの人にとっては正直退屈なものであったのである。





アメリカの歴史の中では、敬虔な信仰者の急速な増加を伴う信仰運動である「信仰復興 (リバイバル)」が度々起こる。18世紀半ばに起こった最初の信仰復興で、牧師として活躍したのが、ジョナサン・ホットフィールドである。



元々役者志望だったホットフィールドの説教は、平明でわかりやすく、多くの人を感動させる力を持っていた。一説によれば「メソポタミア」という語を、繰り返し語るだけで、聴衆を大きな感動の渦に巻き込むことができたという。



それは「単純素朴な福音のメッセージを伝えるもので、教理一辺倒の堅苦しい説教ばかりを聞かされてきたアメリカの人々に大きなインパクトを与えた (p.77)」。彼は雑誌や新聞などのメディアをフル活用して全国を廻り、多くの回心者を出していった。



ここに知性と権威を重んじる立場と、平明で分かりやすい言葉で人々を導こうとする立場の対立が見られる。その後もアメリカは、同様に何度かの信仰復興を経験するが、その度、ドワイト・ムーディやビリー・サンデーなど、著名な人々が登場する。しかし、大衆受けのするわかりやすさは、徐々にエンターテイメント性を帯び、同時に知性と品性を失っていった。



もちろんこれは、知性を重んじる旧勢力にとって納得できる話ではない。だがムーディもサンデーも、(少なくとも本人の意識としては)心にもない演説で大衆を楽しませるだけの芸人では決してなかった。彼らは、自分たちこそが純粋なる信仰心を持ち、神の教えを伝え、人々を救済へと導いているという確信を持っていた。



聖書にもある通り「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる」のである。教会の礎を築いたペテロ自身も無学な漁師だったではないか。



つまり、神の教えに近づくために知性を重んじる立場があれば、対して人々はもっと素朴に、人間が本来持っている(神が与えた)判断力、感性によって、神の教えへと近づくことができるという立場が現れる。これがアメリカにおける反知性主義である。





本書の大きな特徴は、ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』の流れを追うにとどまらず、「反知性主義」の社会的な位置づけや、それが生み出される土壌を、我々アメリカの外ならではの視点から描き出している点である。



ホフスタッターはあくまでも「知性」の立場の人間であり、『アメリカの反知性主義』は、当時のアメリカ社会における反知性主義 (とそれに抗することのできない知性側の不甲斐なさ)を嘆いたものである。



一方本書では、「反知性主義」をネガティブな勢力として片づけることはせず、「知性」と「反知性」という対立軸の根底にある共通の土台を描こうとしている。そこにあるのは、「アメリカ土着のキリスト教」であり、その上にある「平等の理念」である。



本書のもう一つの面白い点は、「反知性主義」が「反知性主義」たりえる美徳を著者が好意的に評価している点だ。そもそも知識人を軽蔑するだけなら、それは知識を持たない人々の遠吠えに過ぎない。そうではなく反知性主義の中には、権威的な知識人を出し抜いてしまえるような、知恵や人間性を見出すことができる。



アメリカには、幾度となくそうした反知性主義のヒーローが誕生した。著者曰く、反知性主義とは「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感 (P.262)」なのである。



この辺りの視点は、単純に反知性主義を嘆かわしい潮流として論じたホフスタッターとは相当に見方が違う。特に後者の見方は、正直言ってやや好意的過ぎるようにも見える。



しかしこうした本家反知性主義の肯定的な側面を描くことを通して著者は、日本における「反知性主義」と呼ばれるものが、およそ反知性主義と呼べるような”立派な”代物ではないことを伝えようとしているのではないだろうか。



アメリカの反知性主義には、権威的な知性に対抗できる人間的な力と、権威に依らずに人々を神のもとへ導こうという平等の理念があった。一方現在の日本の「反知性主義」にはそうした側面など存在しない。それは「“反”知性」ではないし「主義」でもない、つまるところ「“非”知性」に過ぎない。そんな風に言っているようにも感じられる。



反知性主義の基本的な前提を理解する上では非常に面白く、日本における反知性主義を考える上でも、本家である『アメリカの反知性主義』を読む上でも、大変よいガイドとなるだろう。

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義