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言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

 

書籍名からも推察される通り、本書のテーマはサピア・ウォーフ仮説、言語相対論である。言語相対論とは「外界知覚は観測者の母語に依存する」とするものだ。

 

我々の世界観を揺さぶる魅力を持つこの理論は、残念ながら現在では否定されており、著者曰く「ポストモダンの知ったかぶりにとっての言語学タックスヘイブン (p. 164)」になり下がっている。

 

とはいえ、言語と知覚が全くの無関係なわけではない。外界知覚が観測者の母語に”依存する”とまではいかなくとも、若干の影響を受けることは様々な研究において明らかになっている。

 

本書は、我々の知覚・思考と言語との関連についての研究史を紐解く一冊である。

 

古代ギリシア人の色覚
ことの起こりは19世紀、世界史でおなじみの英国首相、ウィリアム・グラッドストンである。後に4期も首相の座に就くことになる彼が野党の地位にいた時代、全3巻からなる『ホメロスおよびホメロスの時代研究』を著した。

 

大変な情熱によって著わされた本書であったが、イリアスを歴史上の真実と信じ (シュリーマントロイアを発掘するのは少し先の話である)、古代ギリシア人のドラマの中にキリスト教の萌芽を見出すなど、先走りすぎた情熱が災いして、大半の内容は荒唐無稽と切り捨てられてしまった。

 

しかし、この中に非常に重大な指摘があった。すなわち、古代ギリシア人は現代人と色覚が異なるのではないかという指摘である。

 

ホメロスの作品の中には、非常に多彩で素晴らしい比喩表現が登場するが、「ワインに見える海」「ワインに見える牛」「緑の蜂蜜」など、色の表現については多くの奇妙な記述があった。特に、「青」を意味すると考えられる単語が全く見当たらない。

 

グラッドストンは、ちょうど当時学術界を賑わせた進化論を援用し、古代ギリシアの人々は、現代の人々に比べ色覚が進化の途上にあったのではないかと結論付けた。

 


◆古代人は色弱であったか
同時代の言語学者、ラツァルス・ガイガーはグラッドストンの指摘に刺激され、世界各地の文献を詳細に調べた。その結果、グラッドストンの指摘を指示する証拠を世界各地に見出した。

 

インドのヴェーダは天空の描写であふれているが、「空が青い」という単純な記述は一度たりとも登場しない。ヘブライ語の聖書にも「青」を表す言葉はなく、預言者エレミアは恐怖で顔が緑に変わった。同様の特徴はアイスランドのサガやコーランの中にもあるというのである。

 

ガイガーは、諸言語の語源をさかのぼりながら、色覚は決められた順番で段階的発達を遂げると主張した。具体的には、最初に赤に対する感度が、次いで、黄色、緑、最後に青の色覚が登場する。

 

折しも1875年、急速に発達していた鉄道網の一か所で、鉄道の信号無視による大きな衝突事故が発生した。

 

事故の検証の中では、誰も思いつかなかったような可能性が指摘される。つまり、運転手は信号の色を正しく認識できなかったのではないか、「色弱の発見」である。

 

この発見によって、我々の生物学的な色覚は普遍的なものではないことが明らかになった。証拠を得た (と思った)当時の人々は、古代ギリシア人の色覚は進化の途上にあり、現代人に比べて色弱であったと結論付けた。

 


◆”未開”の人々の調査と色覚進化説の敗北
古代ギリシアから近代の間にかけて、本当に人類の色覚は進化したのだろうか。現在の進化論からは常識であるが、人類の特徴がたかだか数千年、数百世代の間にこうも劇的に進化することはあり得ない。

 

では、古代言語における色彩表現をどのように理解したらよいのだろうか。生物学的変化が考えにくい以上、古代人の色彩表現は、言語そのものの不完全さにあると考える。つまり、色が見えてはいるが、それを適切に表現する言語が存在しなかったというのである。

 

しかし、色を見分けることのできる人々が、それを言葉で区別するという簡単なことをしなかったなど考えにくい。全ての色が見えているにもかかわらず、蜂蜜や金を「緑」、馬や牛を「赤」、羊を「すみれ色」と呼ぶ人々がいるだろうか。

 

にわかには考えにくいことであるが、これが19世紀の当時にも実際にいたのである。

 

当時、多くの学者や宣教師が世界中の”未開の地”へ旅立ち、様々な報告をもたらす中で、青と緑の間の境界が奇妙な言語の例がいくつか報告されていた。そこで研究者たちは、色覚についての質問票を各地へ送り、データの収集を行った。

 

その結果、色彩表現が非常に限定的な言語の例が現在も多く存在することが明らかになった。しかも言語間を比較すると、色を表す言葉は「黒、赤、黄」のみ、「黒、赤、黄、緑」のみのように、色彩語の獲得順序はガイガーの発達段階説と符合していたのである。

 

しかし言語上の色の区別未発達であるとはいえ、彼らの色覚が異常な訳ではないということも同時に報告された。つまり、緑が現地で「黒」と呼ばれていたとしても、これと同じ色はどれかと尋ねれば、彼らは青や紫ではなく緑を選ぶことができる。

 

こうした知見に決定打をもたらしたのが、実験心理学の手法を身につけたW・H・R・リヴァースによる調査である。

 

彼は1898年に、より厳密な手続きを用いて客観的・系統的な調査を行い、色覚に異常はないが、黒、白、赤しか使わない人々の事例を報告した。これによって、これまで逸話の集積に過ぎなかった各地の報告に、科学的な証拠が提出されたのである。

 

リヴァース自身大変戸惑ったことに、彼が出会った人々は、澄んだ青空をまさしく「黒い」と表現していた。

 

しかし少なくとも調査結果において、彼らの色覚異常を示す証拠はない。結果、彼の系統的な調査報告は、リヴァースの戸惑いとは逆に、「色覚は普遍である」という確定的な結論を人々にもたらしたのである。

 

色覚に差がないのであれば、色の表現の問題は、生物学的な色覚の問題ではなく、やはり言語・文化の問題となる。しかし、議論が結論へ至るにはしばらく空白期間が生じる。

 

 

◆文化がもたらす色彩表現
数十年の時が過ぎた1969年、カリフォルニア大学バークレー校のブレント・バーリンとポール・ケイは、色彩スペクトルの表を用いて、世界各地各地の人々が色彩スペクトルをどのように区切り、それぞれをどのように言葉で表現しているのかを調査した。

 

その中で2つの大きな発見が報告された。それは、「色の区切り方には言語間でかなり類似性がある」もう一つは、「(ガイガーが101年前に予想したことなのだが)色名の獲得には順序がある」というものである。

 

つまり、色彩スペクトルに対する境界線の位置と、境界線の引かれる順番は予め (つまり生得的に)決まっているということである。これはまさしくガイガーの主張した事柄なのであるが、残念ながらガイガーの説は当時の人々から忘れ去られてしまっていた。

 

というのも、20世紀においては、西洋文化中心主義的な過去への反省とともに、人種の違いを進化の度合いに基づいて解釈、序列化することが忌避されるようになっていた。ガイガーの「色彩に関する言語発達に順序がある」とする説も、それに類する不都合な主張として過去のものとなってしまったのである。

 

果たして、バーリンとケイの発見は大きな驚きをもって迎えられ、忘れ去られていたガイガーの順序説は、「バーリンとケイの順序説」と呼ばれることになる。

 

そうはいっても、空を「黒い」と表すことは、我々の感覚からすれば不可解に思われるかもしれない。しかし、「知覚することはできるが、それを表す固有の言葉が存在しない」ことの事例は現代でもいくらでも存在する。

 

例えば現代人も、バナナの甘さやスイカの甘さ、チョコレートの甘さなどに固有の名称は用いておらず、全て「甘い」の一語で片づけてている。こうした貧弱な語彙は、未来の人々から見たら極めて不可解に思われるかもしれない。

 

このような言語表現の段階がなぜ生じるのかについては、原因が明確になっている訳ではない。

 

しかし古代の生活では、利用可能な染料の種類は限られており、色を人工的に操作する機会や、色を体系的に並べた見本を見る機会もない。つまり、現代社会に比べ色彩を細かく区別する機会や必要性が低かった。

 

そのため、血の赤など、生存に必要な色から優先的に言語表現が獲得されていくと考えられている。「青」の獲得は後回しになるのは、空や海などを除いては、自然界でほとんど青を目にしない (つまり区別しなくても生活には困らない)ためである。

 

ただし、文化的な慣習等諸条件によっては、バーリンとケイ見出した順序で言語表現が発展する訳ではない。文化によっては、色彩を区切る境界線の位置や順番が法則に沿わないケースが存在することも明らかになっている。

 

つまり言語における色彩表現の在り方は、生得的な基盤を持ちながらも、文化が「制約の中で自由を謳歌する。(p.115)」のである。

 

 ◆

 

この大変壮大なドラマが、本書の第一部である。第二部ではいよいよ具体的に言語が知覚にどのような影響を及ぼすのかが述べられる。これも大変面白い内容なのだが、本格的な認知心理学的トピックとなるので、ここでは省略する。

 

個人的には、文体含めて非常に面白い一冊で会った。ややこしい話題も多いものの、全体的に専門性の高さと文章の軽妙さが混在し、大変読みやすい内容となっている。 

 

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ