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これからの「正義」の話をしよう その10

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○第十章 正義と共通善
ケネディからオバマ
1960年、カトリック教徒であるジョン・F・ケネディは、大統領選挙において「宗教は私的な事柄であり、公的責任とは何の関係もない」と明言した。



ケネディの目的は、それまで大統領に選ばれたカトリック教徒は一人もいなかったアメリカ合衆国において、自分がカトリックの宗教的信念を国民に押し付けるようなことはないと、国民に安心してもらうことだ。



以来民主党は、「大統領は宗教的見解を自分自身の私的な事柄とすべきだ」というケネディの言葉を引き継ぎ、中絶や同性愛など生殖に関する領域で道徳を法制化すべきでないと主張してきた。



しかし46年後の2006年、同じく民主党バラク・オバマは、党の大統領候補に指名される直前、ケネディとは逆の立場を表明した。



ケネディオバマの共通善をめぐる思想は共通する部分がある。しかし、二人の宗教に対する立場は真逆だ。オバマ曰く、「公共の場に出る時は宗教から離れるよう求めるのは間違っている」。この間に一体何があったのだろうか。



リベラリズムと宗教
ロールズが『正義論』においてケネディの構想を哲学的に擁護したのが1971年のことだ。対立する道徳的・宗教的教義の間で不偏不党を保つには、政治的リベラリズムは、道徳的なテーマに取り組むべきではないという。



しかし1980年には、ロールズの思想の根底にある「自由な選択と負荷なき自己」という観念に、コミュニタリアンが疑問を呈した。



同年、共和党のドナルド・レーガンが大統領選挙に勝利して以降、共和党内でキリスト教保守派の声が目立つようになった。彼らは、国内の道徳的緩みと戦うとして、ポルノや妊娠中絶、同性愛に法規制をかけようとした。



対する民主党はこれに反論したが、彼らの基本的立場は、彼らの主張に大きな制限をかけることになってしまった。



行政府の中立という基本的立場を取るならば、何が道徳的なのかという論争は許されなくなる。そのため反論するには当然、道徳的な問題に行政府が介入すべきでない、と言うしかない。



これらの反論は誠実なものだが、ポルノや妊娠中絶、同性愛そのものへの是非が論じられない以上、議論には有利とはいえない。このような構造によって、民主党はしばらくの間、雌伏の時期を過ごすことになる。



その結果民主党は、国内に広まる道徳的・精神的渇望に応えることはできなかった。そこへ登場したのがバラク・オバマである。



彼は、「ほんのわずかであっても宗教の匂いを嫌う進歩主義者のせいで、我々は道徳的な言葉で効果的に問題に対処することができなくなってしまった」として、より度量が大きく信仰に好意的な形の公共的理性を持つべきと主張した。



そもそも「我が国の法律は、その定義からして道徳を法典化したものであり、道徳の大部分はユダヤ教キリスト教の伝統に基づいている」のであり、法律は宗教的観念と本質的に結びついている。


我々が本当に、人々の置かれた状況について話したいと思うなら―我々の希望と価値観を、彼ら自身の希望と価値観につながるような形で伝えたいと思うなら―、進歩主義者である我々は、宗教的言説の分野を切り捨ててはいけない

という言葉に見られるように、オバマは宗教的・道徳的議論を政治的議論の中に受け入れようとしたのだ。



◆正義と善良な生活
これまでの章で述べたように、そもそも、中立性と選択の自由に基づいて、道徳的・宗教的議論には踏み込まないということは不可能だ。



例えば妊娠中絶の問題を考えてみよう。カトリックは、受胎の瞬間から、胎児は人であるとして、妊娠中絶に反対する。



それに対して、道徳的議論はせず、中絶は選択の自由に任せるとすることは、結果的に「受胎の瞬間から、胎児は人である」という教えに暗に賛同していないことになる。なぜならば、胎児を殺すこと自体は認めることになるからだ。



正義は結局、正しい分配にかかわるだけでなく、ものごとに対する正しい評価にも関わってくるのだ。公正な社会は、善良な生活について判断することとともに成り立つのである。



◆共通善に基づく政治
もちろん。オバマが表明した道徳や市民をめぐる主張が、共通善に基づく新たな政治にうまく転換されるかはまだわからない。しかし今後の政治には、美徳の概念や共通善を真摯に受け止め、取り入れることが必要なのである。



最後にサンデルは、これから取り上げられるべき、共通善に関する新たな政治のテーマとして以下の4つを挙げている。



一つ目は、「市民権、犠牲、奉仕」に関するもの、コミュニティの共通善に対する献身をもたらすような、公民教育の方法についての議論である。



二つ目は「市場の道徳的限界」についてだ。市場は生産的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられることがある。そのため市場以外の価値のうち、どれを市場の価値から守るべきかについて議論がなされるべきである。



三つ目は「不平等、連帯、市民道徳」に関するものだ。貧富の差があまりに大きいと民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれ、公共領域の衰退が生じる。我々は、不平等の公民的悪影響とそれを払拭する方法についての議論する必要がある。



そして最後は「道徳に関与する政治」についてだ。道徳と宗教に関する意見は一致しないものだ。行政府が、不一致について中立性を保つことは不可能だとしても、それでもなお相互尊重に基づいた政治を行うことは可能だろうか。



サンデルはこれを「可能だ」と主張する。だがそのためには、我々が慣れてきた生き方と比べ、もっと活発で積極的な市民生活が必要になる。



我々はこれまで、こうした道徳的議論への関与を回避してきた。しかし、道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強まるはずだ。



もちろんその結果、不一致が同意に至るとは限らないし、相互尊重が本当に生まれる保証もない。しかし、やってみないことにはわからない。



道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。

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