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「山月記」はなぜ国民教材となったのか

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

中島敦山月記と言えば、高校国語の定番教材である。中島敦やその作品について論じた評論は既に多く出版されているが、本書の切り口はそれらと全く違う。



本書は、山月記そのものを語るのではなく、山月記が受容された歴史を通して、日本の国語教育の問題を浮き彫りにすることを狙いとした、中々に野心的な一冊である。





1949年、日本の学校教育において、民間の作成した検定教科書の使用が開始された。「古譚」の中の一編として執筆された「山月記」は、1951年に早くも検定教科書に掲載されることになる。



ではなぜ、「山月記」は採用されたのか。採用当初には、中島敦の親友である釘本久春の尽力があったことは、よく聞かれる所であるが、筆者は、山月記を採用した側の視点から考察をする。



著者は山月記採用の背景として、「民主主義を与えられた」戦後の日本社会の中にあって、山月記が古き良き「正しい生き方」と伝えるという道徳的な任務を背負わされた可能性を主張する。



戦後、GHQの統制による極度の紙不足と、統制外の仙貨紙による粗悪な大衆雑誌、カストリ雑誌の反乱により、戦後の出版会は混乱に陥っていた。



そのような情勢の中、良い本を広めんとする社会的使命のもと、毎日出版文化賞が創設される。第一回は谷崎潤一郎の『細雪』、第二回は竹山道雄の『ビルマの竪琴』と、錚々たる名著が受賞をする中、1949年に筑摩書房の『中島敦全集』が第三回の賞を受賞した。



山月記が教科書に掲載されたのはその直後である。「透明と緊張の文学」などとその美しさを強調された中島の作品は、「教育上使用することが望ましい図書資料」として、学習指導要領の図書一覧に掲載された。



良書として山月記を掲載した当時の図書一覧には、道徳的な内容のものや教養小説が多く掲載されている。著者はここに、価値観がめまぐるしく動く戦後にあって、山月記に与えられた道徳教材としての役割を見出す。





時は過ぎて1956年、高度経済成長期に突入した社会の中で、「山月記」は新たな文脈上の教材として扱われることになる。



この年、日本文学協会において、都立日比谷高校の教師である増淵恒吉が授業実践「山月記報告」を発表する。教材としての山月記研究の端緒である。



単なる言語技術の教師ではなく、ものの考え方や生き方を扱うことこそ国語教師の仕事という自負のあった増淵は、生徒との活発な議論を通し、人間の育成を念頭に置いた授業を展開した。



その中で増淵は、虎になった李徴に「人間性の欠如」を見る。では「人間性の欠如」とは、何が欠けていることを意味するのか。



増淵が言う「人間性」とは、西洋合理主義的な人間の在り様であった。確かに西洋合理主義的な人間性は、当時の高度経済成長時代を生き抜き、社会を支えていく上で重要な要素であったに違いない。



しかし反面、そのような教材としての山月記は「資本主義社会を支える自己規律能力のある人間の育成が求められた時代に、エートスを作り出す「お説教」として用い (p.127)」られることになってしまった。



増淵の報告からしばらくの間、多くの議論を呼びながらも、李徴の「人間性の欠如」は、山月記授業の一つの重要なテーマとして長く扱われることになる。





非常に面白い議論であるが、これはまだまだ入り口に過ぎない。引き続き本書では、多くの資料を参照しながら、読みごたえのある、教材としての山月記論が展開されている。



後書きを見ると本書は、現職高校教員である著者が大学院へ進学し(そういう制度がある)、執筆した修士論文がもととなっているという。大変な労作である。



所々、流石に主観の強い見方なのではないかと思う部分もあるが、こうした議論に正解がある筈もない。むしろ、一人の作者がしっかりと腰を据えて描く、山月記と国語教育の姿を味わうのは、大変面白いだろう。