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日本人の法意識

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人は成熟した人権意識や法意識を持たない、とはしばしば言われることである。しかし、それはいったい具体的にどのようなことを言っているのだろうか。そもそも明治期に我々が手本とした西欧列強の「法」とはいかなる概念であったのだろうか。



明治憲法と5大法典
明治政府は、明治二二年の明治憲法発布に続き、ドイツとフランスの法典を主に手本として、明治二三年から三一年までの短期間に、5つの基礎的法典を作った。

従来の伝統から全く断絶した内容のものを外国――主としてフランスとドイツーーから学んであれほど精密に周到に起草した人々は、今日のわれわれの目から見てまことに優秀な頭脳と知識とをそなえた偉大な法律家であった、と言ってよい。(p.1)

とあるように、これは先人の大変な偉業である。



しかしながら、このように急ピッチで作成された法典は、決してこれまでの日本の慣習や感覚と一致するものではなかった。当時の人々は、これらの法典をそのまま適用できるような生活習慣など、とても持ち合わせていなかったのである。



では、なぜこのような法典が作られたのであろうか。それは、当時の日本の置かれていた国際的状況にある。



当時の日本は、列強との間で治外法権をはじめとする様々な不平等条約を結んでいた。この治外法権を撤廃させるためには、まず日本の裁判制度および裁判の規準となる法律を、列強の承認するようなものであることが要求されていた。



つまりこれらの法典の作成は、列強に文明国として認めさせ、不平等条約を撤廃するという政治的な目的があったのだ。果たして明治二七年、まずイギリスが治外法権の撤廃に同意し、ついで他の列強もこれに続き、明治四四年には治外法権が全面的に撤廃された。



このように政治的には一定の成果を上げたものの、西ヨーロッパの先進資本主義国家ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活との間には、非常に大きなずれがあった。

当時の日本の生活には、非常に遅れた、およそ「近代的」要素とは縁遠いものが、広汎に残っていたにかかわらず、それらの法典を読むと、あたかも当時の日本は、最高度に発達した資本主義国家と異るところがなかったような観を呈する。この意味において、そうしてそのかぎりで、私は明治期の壮大な法典の体系は鹿鳴館と同じく、「文明開化」の日本の飾り、後進国日本の飾りであった、と言ってよいと思う。(p.3-4)

そして、そのずれから見えてくるものが、今日まで続く我が国の法意識、権利意識なのである。



◆ 法意識の違い
法とは、その許にいる人々の権利や義務の範囲を定めるものである。



しかしながら日本語は元来、多義的な広がりを持ち、明確な範囲を定めることが難しいという特徴がある。従って日本人は、ある言葉が意味するものの輪郭・境界を明確に定めることが不得手である。



このことは、法の条文が定める意味とその範囲を明確に決定することを困難にさせる。これは逆に言えば、法の条文には、多くの解釈可能性があるということだ。



日本では、法の条文と社会環境との間に齟齬が生じた時、法の解釈が問題になることが多い。つまり、法の条文に込められた意味や解釈可能性を考察することによって、その齟齬を解消しようとするのである。



一方西欧では、言葉の意味を固定的に用いるがゆえに、法の解釈にも限界があることが自覚されている。そのため、現実と法との齟齬が生じた時、解釈によって無理矢理法を現実に当てはめることはしない。



裁判において、ある事柄が法によって明確に判断できない場合は、むしろ法ではなく慣習法や条理に基づいて判断することを明示し、判決が下される。そして、その現実と法との齟齬が大きくなった場合は、法そのものが改正の対象となる(もちろん日本でもこれをしない訳ではないが)。



また日本と西欧では、法に対する規範性そのものの違いも存在する。



西欧はある種、「世界が滅びるとも正義は行われるべきである」ともいえる観念を持っている。法律が有効に存在する限り、人は法律を以て現実に働きかけなければならず、妥協は許されない。



もちろん禁酒法時代のアメリカように、法の定めが現実社会に抗しきれず調整を行うことはあるが、これもなぁなぁで済ますことはなく、手続きに則った調整を行う。



一方の日本では、法律通りに交通の取り締まりを行えば、「融通が利かない」として非難される。法は、絶対的なものではなく、融通性があることが世間ではむしろ評価される。



◆ 権利意識の違い
西洋の法体系と切っても切り離せない概念が「権利」である。



そもそもヨーロッパの伝統では、「法」と「権利」は元来同一の言葉であった。つまり「法の体系」とは「権利の体系」であり、そうした概念に長く馴染んできた西欧人にとって「権利」とはわざわざ説明する必要もない、空気のように当たり前すぎる概念なのである。



一方日本には、「権利」という言葉が元々存在しなかった。明治の時代で既に、福沢諭吉が『通俗民権論 (明治11年)』の中で、日本人の「権利」に対する理解の無さを嘆いている。



では権利とは何だろうか。AとBという二者関係において、「AがBから金銭を受け取る権利を持っている」という時、「BがAに対して金銭を支払う義務がある」ということが暗に前提とされている。



大切なのは、「BがAに対して金銭を支払う義務がある」のは、Aの実質的な実力行使によるものではないということである。Aは決して、実力行使で支払いをさせるのではないし、逆にBが実力行使で義務を果たさないということも認められない。



つまり「権利」とは、双方が持っている利益と義務を、両者の事実上の力の強弱にかかわりなく承認するものである。



そのような「権利」の体系を明文化したものが「法」である。つまり「法」と呼ばれるものは、実力行使を抑止し、奏法の利益とを承認するための社会メカニズムであり、全ての人が法の前では平等となるのである。



中世を舞台にした物語を読んでいると、「法の威光はあまねく届き」とか「法の保護を失う」とか言う言い回しがたびたび出る。



昔の私は「法の保護を失う」ことでいったい何か困るのか、正直あまり想像がつかなかったのだが、法の保護を失うことは、つまり個人の権利が保護されなくなるということなのだ。



一方、日本の伝統的な雇用関係の中では、雇用者は自分が「労働を請求する権利」を持ち、労働者も自分が「賃金を請求する権利」を持っているとはあまり考えない。



雇用者が持っているのは「権力」であり、労働者はそのもとで「働かせていただいて」いたのである。このような感覚は、資本企業が広く成立してからもまだ多少は残っている。



現在でも、社会的弱者が、自らの権利を訴えることは、周囲からスムーズに歓迎されるものではないことは、様々な出来事を見聞きするにつけ、感じられることである。




もちろん、この本自体1967年のものであるし、日本も西欧も、このような意識に完全に沿って動いている訳ではない。



最近でもアップルの巧みな、合法ではあるが手放しで承認はしがたい節税がアメリカで話題になったし、日本でも公安委員長の融通性を求める発言が問題になった。



しかしながら、日本と西欧との法や権利に対する意識の根底には、このような違いはまだ存在しているのだと思う。おそらく、行くところに行けば、一般教養として常識レベルの話なのであろうが、この分野に全く無知な私にとっては大変勉強になった。



一昔前の知識人が持ち合わせていた由緒と風格がありつつも簡潔な言葉遣いも相まって、知識を吸収することの楽しさを体験できる、非常に面白い一冊である。

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

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「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

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