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フランクル心理学入門:どんな時も人生には意味がある 概要

フランクル心理学入門―どんな時も人生には意味がある

フランクル心理学入門―どんな時も人生には意味がある

フランクルの思想
臨床心理学の周辺にいる人ならば、フランクル (Viktor Emil Frankl: 1905 - 1997)という名前と「実存分析」「ロゴセラピー」等の言葉は知っているはずだが、何と言っても世界的に有名なのは、ナチスの収容所体験を書いた『夜と霧』である。



フランクルの思想の中心は、「人生の意味」である。人間はしばしば「自分の人生の意味とは何だろう」という問いに直面して悩む。フランクルはこの答えのない問いを逆転させ、人間はむしろ、人生から意味を問われているのであって、それに責任をもって答えなくてはならない、と説いた。つまり人生にはどんなときにも「なすべきこと」「実現すべき意味」が必ずあって発見され実現されるのを待っているのである。



人は青年期において特に、「自分が本当にしたいことは何か」を問うものである。しかしフランクルに言わせれば、本当に問うべきなのは「自分は何をする必要があるか、何を求められているのか」である。我々は、自ら意味を問うているのではなく、我々を超越したところから、「お前は何ができるのか」と問われているのである。



『夜と霧』が有名になりすぎたせいで、フランクルの思想は、収容所体験に基づくと説明されることもあるが、これは誤解である。フランクルの基本思想はそれ以前から形成されており、収容所に入る前からデビュー作『医師よる魂の癒し (邦題『死と愛』)』の原稿を作成していた。



収容所に入れられることになったフランクルは、原稿を上着の裏地に縫い付けるなど、自らの仕事を何とか残そうとした。結局上着は没収されてしまったが、生きて収用所を出て、この作品を世に出すこと(と家族に会うこと)が、収容所生活を生き延びる心の支えとなった。



つまりフランクル自身、やるべき仕事や、愛する家族が自分を「待っている」という感覚が、収容所を生き延びるための態度につながったのである。



本書を読む限り、実際のセラピーは、問答のように進む。治療の目的が意味の探求であるので、それはある程度必然性があるようにも感じるが、現在残っているセラピーの王道からは外れる印象を受けた。しかし一方で、不安症状に対しては今でいう問題解決アプローチのような対応も行っており、この辺りは興味深い。



フランクルと他の諸理論
フランクル人生の意味への関心は、4歳の頃には早くも芽生えていた。精神医学に興味を持ったフランクルは、高校時代にはフロイトに魅せられ、17歳の時にフロイトに「身振りの肯定と否定について」という2ページの論文を送っている。これが2年後、フロイトの推薦によって国際精神分析ジャーナルに掲載されたというから、その能力の高さがうかがえる。



しかしフランクルは、生物学や精神分析など特定の観点からの還元主義を嫌った。「生命とは燃焼・酸化の過程に過ぎない」「理想や価値は防衛機制にすぎない」こうした還元主義は「人間は所詮〜にすぎない」というニヒリズムにつながり、人間存在の意味を見失わせるからだ。



そのためフランクルは、フロイトの還元主義的な発想にはそりが合わず、早々にフロイトから離れている。次に近しくなったのは個人心理学のアドラーで、20歳になった1925年、早くも「国際個人心理学年報」に論文を掲載している。



アドラーWWI後に凋落したオーストリアの学校教育に共同体システムを打ち立てた。その特徴の一つが、生徒にカウンセリングを受けさせるというものである。これによって生徒は、態度や行為、人生の意味を求める動機に関して人格的責任が芽生える。



ここで芽生える「自分は共同体の中で何をなすべきか」という意識こそがアドラー理論の重要概念である、「共同体感覚」に通じるものであり、フランクルが共感した部分である。しかし半ばにしてフランクルは、自由意思に関する考えがアドラーと合わなくなり、結局最終的に協会を除名されてしまう。



なお、ユングに対しては人間の宗教性・を見出した点では評価しているが、それを自己を超越した場所でなく、人間の無意識の中に置いてしまったことに批判的であった。



フランクルはさらにマズロー自己実現にも批判的だ。自己実現は単に自分の可能性を最大限に発揮することだが、ここで注目されているのは「自己内の可能性」のみであって、フランクルの言う、自己を超越した所から呼びかけられる意味への意思が注目されていない。

フランクルに言わせれば自己実現欲求は意味への意思を満たすことに失敗したときの代替に過ぎない。つまり、自己実現を目指す状態とは、探究すべきものを見失い、注目が自己に向いてしまった状態なのだ。曰く「ブーメランは、的を外した時だけ、それを投げた猟師のもとへ持ってくる」



ちなみにマズローは「それは誤解だ」といった風の返答をしている。マズローのいう自己実現は、自分の使命や課題に取り組むなど、フランクルのいう意味への意思に通ずる部分もあり、必ずしも自己にとらわれた状態ではないのだと。



さらにフランクルは、グループエンカウンターにも批判的だったらしいが、これは知識不足による誤解という側面が大きいらしい。いずれにせよ、いろいろな大御所にもひるまず自らの理論を展開していったようだ。



◆本書の特徴
本書は何と言っても、フランクルの全著作についての解説と、さらにフランクル理論への建設的な批判が行われているところが、面白い。



特に、フランクル心理学におけるPIL (人生の目的テスト:Purposein Life Test)に対して、主観的な「意味があるという感覚」を扱っているにすぎず、これは、決して超越的なところから与えられる呼びかけとは言えない。という批判が興味深い。



フランクル自身が「最後の一瞬まで、最後の息を引き取るまで、人間は、自分が本当に人生の意味を実現できたかどうかを知ることはできない」と言っているように、フランクル心理学における「意味」とは決して「意味がある、という主観的な感覚」ではないのである (ただそう考えると、主観に頼らずに、如何にして超越的な所からの問いかけを確信するのかが、そもそもの疑問として生じるのだがこれはまたいつかどこかで考えたいと思う)。



全体として諸富先生のテイストが存分に感じられるが、そういう著者の思い入れも込めて、フランクル心理学の全体をつかむには良い本であると思う。

フランクル心理学入門―どんな時も人生には意味がある

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夜と霧 新版

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死と愛――実存分析入門

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