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近代日本一五〇年:科学技術総力戦体制の破綻 (後半)

前回の続き
rue-sea.hatenablog.com

 

 

軍国主義の中の近代化と科学
太平洋戦争前夜、国力と技術力を総動員する総力戦に向けた軍事的要請の高まりの中、科学者サイドからは科学技術振興が大いに求められるようになる。

 

満州事変のおこった1931年、元東大理学部長の藤澤利喜太郎は、貴族院本会議で国難の打開策として学術研究の重要性を声高に主張した。これは大きな反響を得、1932年12月に天皇からの下賜金、政府の補助金、民間の寄付をもとに、日本学術振興会が設立される。

 

その数年後に日中戦争勃発、翌年の1938年、国家総動員法の成立と同年に創設されたのが、現在も続く科学研究費補助金 (科研費)である。こうした制度のもと、科学研究もいよいよ国家動員体制の中に組み込まれていく。

 

今となっては驚くべきことだが、科研費は、このような流れの中で創設されたのである。しかし、現代的な視点から見れば否定的な文脈での誕生に見えるこの科研費も、当時の科学者たちには好意的に受け止められた。

 

わが国に大学ができてから半世紀余り、講座制の名のもとに「有能なる研究者も研究費の不足のために十分なる業績を挙ぐることを得ず、さらに研究成果を産業化する施設に至ってはほとんど之を闕除 (けつじょ)している」という状況にあって、科研費の創出はにわかに活気をもたらしたという。

 

さらに1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要項」では、科学研究に対する単一司令部を形成し、諸研究を統一的総合的にとりまとめようという構想が提示された。これは研究体制の効率化・合理化を進めるとして、封建的な人間関係、学閥、官僚機構といった日本の科学風土に嫌気した若手からも賛同を得た。

 

果たして学振は、日本における科学研究の近代化を、軍からの要請への従属と抱き合わせて行ったのである。科学研究の制度とともに、軍事的要請の高い海洋調査、気象観測などは科研費の支援を受けてに大いに発展した。

 

皮肉なことに、戦時下では多くの科学者たちが自律的に体制へと参加していった。戦後の1951年に日本学術会議が研究者を対象に行ったアンケート調査では、過去数十年間で最も学問の自由が実現していたと評価されたのは戦時中であったという。もちろんこれは、研究所指導部の戦争への全面協力によって保障されていた学問の自由である。

 

制度的面での近代化推進は、国家全体のレベルでも起こっていた。総力戦にあたっては、有能な官僚機構を組織し、あらゆる機能の技術的合理化を図ることで、計画的な生産体制を実現する必要がある。また、兵や工員の安定的確保のためには、食糧管理や健康保険制度なども求められた。

 

このように、一方で国粋主義ファシズム、学問の自由への侵犯、反知性主義的風潮などが吹き荒れる中、同時に軍と官僚による上からの近代化・合理化も進められたのである。

 

この点について歴史家の広重徹は、「太平洋戦争は、それ自身の中に近代化に対する阻害要因を含みながら、他方では近代化を強く要請」したとして、日本の近代化が「軍国主義の進展という社会条件の下でしか始まらなかった」悲劇を指摘している。

 

◆敗戦とその後
結局日本は、アメリカの圧倒的な生産力と、科学技術の粋たる原子爆弾によって、無条件降伏をする。

 

しばしば指摘されるように終戦後の日本では、内務省の解体等はあったものの、官僚機構による統治という構造自体は温存された。同時に、我が国の科学技術の基礎構造も、同様に戦中から戦後へとそのまま温存された。

 

科研費・各種研究機関・整備された大学院制度などは現在も残っており、各種化学工業は戦時中に育成された理工学部の出身者がけん引した。また、電力、造船、鉄鋼、自動車、鉄道、電気通信など、各種の軍需産業はそのまま、あるいはそれを基礎として、朝鮮戦争特需に応え、戦後の経済成長に大いに貢献した。

 

終戦直後、科学者は科学技術の遅れによる敗戦を反省こそしたものの、自らが戦争へ協力したという点についてはほとんど顧みられることがなかったのである。

 

その後、朝鮮戦争が停戦となってからは、自衛隊発足による自国での軍備増強が始まる。ここには当然多くの製造業が参加しているし、現在では軍事輸出と軍学共同研究という形で、さらに民間との連携のすそ野が広がっている。

 

言うまでもなく、原子力もこの一端を担っている。1955年の原子力基本法以降、日本における原子力開発は、多くの企業とその下請けが一体となって国から巨額の受注を得ている。そして、全ての産業能力が潜在的軍事力であった過去と同様、潜在的核武装能力として現在まで存在している。

 

しかし、日本の原子力福島第一原子力発電所の事故を迎える。筆者は、JOCの決死的な働きを軍隊になぞらえ、ここに富国強兵・大東亜共栄圏・戦後の国際競争を経て一貫して存在していた体制の破綻を見る。

 

 ◆

 

こうした結論はいささかナイーブに映るかもしれない。本書の著者の山本義隆氏は、科学史に関する数多くの学術書を著す科学史家にして、元東大闘争全学共闘会議代表、特定の研究機関に属さない在野の士である。

 

そのような立場から、冷静に日本の科学技術体制を眺めた時、国家の道具として科学技術がもてはやされてきたという歴史が確かに浮かび上がる。もちろんそこには、非常に豊富な資料を基にした説得力が伴っている。

 

周知の通り、現在の日本における各種政策の中では、学問はその即時的実用性ばかりが求められ、本来の知への探求という営みへの敬意はほとんど存在しない。こうした姿勢が、実は近代日本の当初より存在していたという視点を、本書はまざまざと思い知らせてくれるであろう。

 

知識と経験の革命―― 科学革命の現場で何が起こったか

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